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2014年9月12日金曜日

伊達杏子はだめで、初音ミクは上手くいったのはなぜか


ほりぷろが作ったバーチャルビューティ 伊達杏子はなぜうまくいかなかったのか

1.デザイン
 伊達杏子は、CG技術主導で、アイドルキャラクタはあとから作成された。
 バーチャルアイドルを作成するというコンセプトが先にあって、CGで実現可能なアイドルとして、適当なアイドルをミックスしたキャラクタが作られた

 初音ミクは、最初にボーカロイドとしてのキャラクタがデザインされ、それを3Dソフトでモデル化し、次に動かすためにMMDが作られた。

 初音ミクは最初にキャラクターデザインがあったので、キャラクターとしてのidentityが存在していた。つまりデザインにそれを3D化する手段としての技術が従属している
  
 伊達杏子はCG技術が先にあって、あとからキャラクターデザインが作られた。
 技術ありきなので、キャラクターデザインは技術的に実現可能がデザインに限定された。
  それではキャラクタ-としてidentityが欠けてしまう。


2.ランニングコスト
 伊達杏子は、高価なモーションキャプチャー装置が必要。

  初音ミクは基本的に無料。表示装置も編集も普通の低スペックのパソコンでも十分。
  追加投資なく実現でき、ランニングコストも基本的に無料

3.活動分野の不適切な選択
 伊達杏子は、情報番組や司会など新人タレントが顔を売り込む活動分野に使われたが、リアルタイムで、人間とのインタラクティブな活動はCGでは不得手なジャンル。

 初音ミクは歌とダンスに活動分野を限定した。が、もともとボーカロイドとMMDの得意とする分野で。かつ、事前に作り込むことが前提。

2014年6月24日火曜日

「ダークナイト ライジング」 って 「パトレイバー The Movie2」のパクリじゃないの?

2012⁄08⁄15(水) 00:59
夏期休暇中にせっかくなので映画のはしごをして、「バットマン ダークナイト ライジング」を見てきた。

 つじつまの合わないところがいろいろある映画なので、観ている間、首をひねり通しだった(特に核融合炉を積んだトレーラをなぜ街中に巡回させているか不思議でたまらなかった)のだけど、ゴッサムシティの橋が落ちる場面を見た瞬間、

 ”これって、 「パトレイバー The Movie2」(監督 押井守、原案ヘッドギア) のパクリだよね”

と気づいた。

 そうすると、いろいろ符合する点が出てきたと同時に、映画の不可解な部分が「それで無理矢理な展開になっているわけね」と氷解した。

 以下、   パトレイバーの要素  → ダークナイトライジングの要素

という具合に列挙してみる。
 
・「パトレイバー The Movie2」は元自衛隊員(柘植行人)が自衛隊による架空のクーデターをでっち上げることにより、東京を疑似的な戒厳令下に置く。

  → 「ダークナイト・ライジング」はベインがゴッサムシティを擬似的な革命状況に置く。

・東京の橋を落として孤立化させる → ゴッサムシティの橋を落として孤立化させる

・毒ガスを搭載した飛行船3機を上空に巡回させる → ゴッサムシティに核爆弾を搭載したトレーラーを3台巡回させる。

・東京の地下水道に爆弾を仕掛けて通信回線を遮断する   → 地下鉄と下水道に爆弾を仕掛ける。

・敵の作戦の最終決行日は雪が降っている。
  「パトレイバー The Movie2」は226事件をモデルにしているので、決行日は2月26日になっており東京は真っ白な雪景色。
 
  → ダークナイト・ライジングの最終決戦日も真っ白な雪景色
     (劇中で何月何日かを示すカレンダーか何かが見つかれば決定的だと思うが)


・敵の頭目は外地帰り。
   柘植行人 → ベイン


・味方の主要女性キャラクタの一人が敵の同志である。
   南雲忍 → ミランダ・テイト

・警察が無力化される
  政府が事態悪化の責任を警察に押しつけて、警察に代えて自衛隊を東京に治安出動で展開する。
      →  ゴッサムシティの警官たちが地下に閉じ込められる
         (警察がなぜ全員退場させられたかがこれで判った!)
                       
 ・橋を落とすヘルハウンド   →  バット
 (構図と機体の挙動ががそっくりな場面が何度もある)

 ・主人公の意を受けた刑事(松井刑事)が一人だけ敵のダミー会社をかぎ回る

     →ブレイク刑事が一人で、ベインの意図を探るために工事会社などを調べ回る。

 これだけ似ていると偶然の一致とは思えない。

 「ダークナイトライジング」の劇中でも「刑事は偶然を信じない」という台詞があった筈だが、これだけ類似点があると、偶然ではないだろう。
 
 日本の映画雑誌の記者には是非ノーラン監督に「日本のアニメの『パトレイバー The Movie2』に似ていますが、パクッたんですか? 押井監督へのリスペクトですか?」と鋭く突っ込んで欲しい。

「ダークナイトライジング」は「日本沈没」(2006)並の駄作だ!


「これだけの行動を起こしておきながら中枢の占拠も政治的要求もなし。そんなクーデターがあるもんですか。
政治的要求が出ないのは、そんなものが元々存在しないからだ。情報を中断し混乱させる。それが手段ではなく、目的だったんですよ。これはクーデターを偽装し たテロに過ぎない。それもある種の思想を実現するための確信犯の犯行だ。戦争状況を作り出すこと。いや、首都を舞台に戦争という時間を演出すること。犯人 の狙いはこの一点にある。」

NIFTYフォーラムの押井守会議室が現存していたら、もっと濃い議論が交わされただろうな。

2012 年8月15日の記事http://ultrawoman.blog14.fc2.com/blog-entry-559.html は、少なからぬ波紋を 呼び起こしたようで、このブログでもずいぶんとコメントを頂戴したし、ツィッターもいろいろな反響があったし、2chでもちょっとしたスレッドができて た。

パクリなんかしてないという反論みたいなコメントやツィッターがいろいろあったけど、残念ながら、それらは反論としての体をなしていない。
今回、反論はこれを越えてないとダメという明確なレベルを設定していたのだけど、見事に全部この水準をクリアしてない。
そんな難しい話じゃない、

  「なぜベインは、核融合炉を積んだトレーラーを3台用意して、ゴッサムシティの街中を巡回させていたのか?」

 これに映画的な明確な説明、例えば、「ナイトフォール」とか「二都物語」からの引用ですと答えてくれればよかった。
 (もちろん無理だ。「ナイトフォール」にも「二都物語」にもこんな設定ないから)

 反論(のような)コメントはそこは華麗にスルーしてた。
 この設定が「パトレイバー」以外の、どこから来たかをきちんと説明できたコメントやつぶやきにお目に掛かったことはない。

 そこにこそ、「ダークナイトライジング」という映画の問題がある。
 物語の中核をなす設定なのに、「ダークナイトライジング」の内部には、
・核融合炉をトレーラに積む理由も、
・トレーラーを巡回させる理由も、
・なぜ3台なのか
の必然性も蓋然性も描かれない。
 映画を見た人は「何かおかしい」と思わなかったんだろうか?
 5月間ずっとトレーラを巡回させるの?
 おかしいと思うでしょ、普通は。

 道路に大穴があいていたら、歩行者もドライバーも否応なしに(穴に落ちる前か、落ちた後かという違いはあるにしても)気づくのに、映画の場合、大穴があいているの気づかない。あるいは、気づかないふりをする。

 なんのためにパクリを指摘するのか?
 それは「映画を理解するため」だ。
「ダークナイトライジング」の映画としてのストリーの矛盾や不自然なところが気にならないのだろうか?
 「なぜこんな変な展開になってるんだろう」と思わない? 謎を解きたくない?
 普通は謎を解きたいよね?
 映画を見終わった後でも、釈然としないでずっと頭の片隅に引っかかったままにならない?

 三台のトレーラーを巡回させるのは、「パトレイバー2 The Movie」で、三隻の飛行船に毒ガスを搭載して、東京上空を巡回させる設定そのまま。
 「パトレイバー2 The Movie」ではこの飛行船には妨害電波の発生器が搭載されていて、電磁波による通信やマスコミュニケーションを妨害するという役割もあって、東京都内の情報を遮断するという敵の目的のためも使われていた。
 ところが、「ダークナイトライジング」は、トレーラにこうした必然性を与える役割がないので、物語から設定だけが不自然に浮いている。

 こうなってしまったのはおそらく、押井守の映画の作り方が普通と異なるからだ。
 押井守の場合、監督が語るべき思想とか世界観があって、それを語るために最適なストーリーとキャラクターを逆算して作り出す。

  世界観(思想、監督の言いたいこと) → 世界を語るためのストーリー → ストーリーを語るためのキャラクタ

の順に構築される。
 なので、世界観にあわなければファンに人気のあるメインキャラクターでさえ容赦なく切り捨てる(「パトレイバー2 The Movie」の野明の扱いを見れば判る)
 押井守以外がこの方法を真似て映画を作ると無残に失敗する。「WXIII 機動警察パトレイバー」とか。

 ところが、「ダークナイトライジング」は「バットマン」というキャラクター先行の映画なので、映画の作りが真逆。

  まずキャラクターがある → そのキャラクターを活躍させるストーリー → 主人公の存在が正当化される世界(主人公が正義とされる世界)

 の順に作られるので、そこに押井守の作品設定を持ち込めば矛盾を来すのは当たり前。
 押井監督の思想や世界観を表現するための設定やストーリーなのに、それを違うものを表現するために使おうとすれば、つぎはぎでつながらなくなる。

 ノーラン監督は「メメント」とか「インセプション」のように技術的なスキルによって成立する映画は上手いんだけど、それ以外の部分で何かを語ろうとするとぐずぐずになる。この点、日本の樋口監督と似ている。

 どっちも映画を通じて語る思想を持っていない。

 だから、ドラマ部分は役者にお任せ。
 力量のある役者さんが良い演技をすると良い映画ができるが、役者の演技が平凡だとドラマ部分はものすごくつまらない映画になる。
  役者の演技をコントロールして、意図通りのドラマを作ることが出来ない。
  目指すべき目標=監督が役者を通じて語る思想がないから。

 というわけで、
 「クリストファー・ノーラン = 樋口真嗣 」説 を唱えたい。