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2014年6月24日火曜日

「ダークナイトライジング」は「日本沈没」(2006)並の駄作だ!


「これだけの行動を起こしておきながら中枢の占拠も政治的要求もなし。そんなクーデターがあるもんですか。
政治的要求が出ないのは、そんなものが元々存在しないからだ。情報を中断し混乱させる。それが手段ではなく、目的だったんですよ。これはクーデターを偽装し たテロに過ぎない。それもある種の思想を実現するための確信犯の犯行だ。戦争状況を作り出すこと。いや、首都を舞台に戦争という時間を演出すること。犯人 の狙いはこの一点にある。」

NIFTYフォーラムの押井守会議室が現存していたら、もっと濃い議論が交わされただろうな。

2012 年8月15日の記事http://ultrawoman.blog14.fc2.com/blog-entry-559.html は、少なからぬ波紋を 呼び起こしたようで、このブログでもずいぶんとコメントを頂戴したし、ツィッターもいろいろな反響があったし、2chでもちょっとしたスレッドができて た。

パクリなんかしてないという反論みたいなコメントやツィッターがいろいろあったけど、残念ながら、それらは反論としての体をなしていない。
今回、反論はこれを越えてないとダメという明確なレベルを設定していたのだけど、見事に全部この水準をクリアしてない。
そんな難しい話じゃない、

  「なぜベインは、核融合炉を積んだトレーラーを3台用意して、ゴッサムシティの街中を巡回させていたのか?」

 これに映画的な明確な説明、例えば、「ナイトフォール」とか「二都物語」からの引用ですと答えてくれればよかった。
 (もちろん無理だ。「ナイトフォール」にも「二都物語」にもこんな設定ないから)

 反論(のような)コメントはそこは華麗にスルーしてた。
 この設定が「パトレイバー」以外の、どこから来たかをきちんと説明できたコメントやつぶやきにお目に掛かったことはない。

 そこにこそ、「ダークナイトライジング」という映画の問題がある。
 物語の中核をなす設定なのに、「ダークナイトライジング」の内部には、
・核融合炉をトレーラに積む理由も、
・トレーラーを巡回させる理由も、
・なぜ3台なのか
の必然性も蓋然性も描かれない。
 映画を見た人は「何かおかしい」と思わなかったんだろうか?
 5月間ずっとトレーラを巡回させるの?
 おかしいと思うでしょ、普通は。

 道路に大穴があいていたら、歩行者もドライバーも否応なしに(穴に落ちる前か、落ちた後かという違いはあるにしても)気づくのに、映画の場合、大穴があいているの気づかない。あるいは、気づかないふりをする。

 なんのためにパクリを指摘するのか?
 それは「映画を理解するため」だ。
「ダークナイトライジング」の映画としてのストリーの矛盾や不自然なところが気にならないのだろうか?
 「なぜこんな変な展開になってるんだろう」と思わない? 謎を解きたくない?
 普通は謎を解きたいよね?
 映画を見終わった後でも、釈然としないでずっと頭の片隅に引っかかったままにならない?

 三台のトレーラーを巡回させるのは、「パトレイバー2 The Movie」で、三隻の飛行船に毒ガスを搭載して、東京上空を巡回させる設定そのまま。
 「パトレイバー2 The Movie」ではこの飛行船には妨害電波の発生器が搭載されていて、電磁波による通信やマスコミュニケーションを妨害するという役割もあって、東京都内の情報を遮断するという敵の目的のためも使われていた。
 ところが、「ダークナイトライジング」は、トレーラにこうした必然性を与える役割がないので、物語から設定だけが不自然に浮いている。

 こうなってしまったのはおそらく、押井守の映画の作り方が普通と異なるからだ。
 押井守の場合、監督が語るべき思想とか世界観があって、それを語るために最適なストーリーとキャラクターを逆算して作り出す。

  世界観(思想、監督の言いたいこと) → 世界を語るためのストーリー → ストーリーを語るためのキャラクタ

の順に構築される。
 なので、世界観にあわなければファンに人気のあるメインキャラクターでさえ容赦なく切り捨てる(「パトレイバー2 The Movie」の野明の扱いを見れば判る)
 押井守以外がこの方法を真似て映画を作ると無残に失敗する。「WXIII 機動警察パトレイバー」とか。

 ところが、「ダークナイトライジング」は「バットマン」というキャラクター先行の映画なので、映画の作りが真逆。

  まずキャラクターがある → そのキャラクターを活躍させるストーリー → 主人公の存在が正当化される世界(主人公が正義とされる世界)

 の順に作られるので、そこに押井守の作品設定を持ち込めば矛盾を来すのは当たり前。
 押井監督の思想や世界観を表現するための設定やストーリーなのに、それを違うものを表現するために使おうとすれば、つぎはぎでつながらなくなる。

 ノーラン監督は「メメント」とか「インセプション」のように技術的なスキルによって成立する映画は上手いんだけど、それ以外の部分で何かを語ろうとするとぐずぐずになる。この点、日本の樋口監督と似ている。

 どっちも映画を通じて語る思想を持っていない。

 だから、ドラマ部分は役者にお任せ。
 力量のある役者さんが良い演技をすると良い映画ができるが、役者の演技が平凡だとドラマ部分はものすごくつまらない映画になる。
  役者の演技をコントロールして、意図通りのドラマを作ることが出来ない。
  目指すべき目標=監督が役者を通じて語る思想がないから。

 というわけで、
 「クリストファー・ノーラン = 樋口真嗣 」説 を唱えたい。

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